今日の思想

日々の思想備忘録

2021年3月6日(土)の思想

目次

31当たる

もうヤダーーーーーー!!!!!!!!なんもしたくない!!!!!鬱!!!鬱!!!!憂鬱!!!!!!!!!
と、なんの理由もなくジタバタしながらスマホをいじっていたら、WOWOWのキャンペーンでなんと31アイスクリームのギフト券が当たった。
抽選で3000名様らしい。ラッキー!!!!
でもダイエットするぞ!と宣言したばかりなので1か月後かな……。
シングルが6つもらえるらしいので、多摩センターフレンズと31パーティをしてもいいかもしれない。
期限が7月末までなので使い忘れないようにしたい。

実況配信みがち

最近よくあまんがすの実況を見ている。
めちゃくちゃ毎日試合してるあの辺(あの辺)の人達の奴。
昨日は友達と通話をしながら実況を見ていて、友達はスナザメさん視点の配信を、わたしはせんたん視点の配信を見ていた。
雑談をしながら推理もしつつ見て、お互いインポスターが見えちゃったらその辺りはこっそり黙る、みたいなそういう遊び、めちゃくちゃインターネットだ……と思って楽しかった。

特定の配信者が好きというよりかは、あまんがすのあのちいこい生き物が好きなんだな!?という事に気がついてしまった。
なのでよく見てる配信者でも他のゲームの動画はあんまり見ない。
あくまでもあのちいこい生き物に人格が宿ってる……みたいなニュアンスで見てしまってるんだろうな~。

海外とか日本とかのファンアートや動画を見漁ってずっとにこにこしてる。
ちいこい生き物が沢山いるのに弱いんだよな……だからモルカーも駄々ハマりしてるし……。

あまんがす、スマホ版とPC版が公式で日本語対応したので皆やろうな!!!!

一緒に死ぬ覚悟もないなら愛してるなんて言うな

昨日の、演劇依存が云々の話の続き。
これはもう自分で自分を縛ってるマイルールであって、他者に対してもそう思っている訳ではないのだが、自分の中でやはり、何かを大声で好きだと叫び、その事について語るのであれば、責任を持ってやるべきだ!みたいな価値観がある。
それ故に、今仮に「演劇と共に死んでくれ!」と言われても、すぐに頷けそうにないどころか、生きる方を選択してしまう自分に対して、自分が裏切り者と感じてしまう…みたいなそういう感覚に陥っており、それにより昨夜は落ち込んだんだろうなあ、という所まで見えて来た。

つまるところ、昨日書いた《演劇が無くても生きているようになった》というのは誤りであって、わたし自身はやはり演劇という文化が無いと生きていけないとは思う。
ただ、《演劇と一緒には死ねなくなってしまった》という、その微妙だけれどハッキリと違う感覚に対して、自分自身でのモヤが凄いんだろうな~と感じた。

別に、だとしても好きだと言っていいし、愛を語っていいとも思うのだが、自分が尊敬している、それこそ演劇と共に生きて死んでいくような人達に対して失礼なのではないか?みたいな感情が、好きだからこそ芽生えてしまっている。

事もあろうにわたしは、自分がその人達の仲間だと思っていた部分があったから、きっと自分自身に対して「なんて烏滸がましいんだ!」と思ってしまい、後ろめたさがばくばくに爆発してるんでしょうけども。
でも多分、今がそうなっているだけで、そういう風に思っていた時は確実に演劇と一緒に死ねていただろうから、本来は後ろめたく感じる必要もないのだろうけれども。
でも、なんか、自分として尺全としないというか、「そんなデカい口叩くな!!!」と思ってしまうのかもしれない。

難儀だ。

後、自分でも昨日パニックになっていたのでこれも補足だが、《演劇よりも大切なものが出来たからそうなった》のではなく、《演劇というくくりからもっと大枠へと移った》という感覚が近いかもしれない。
ジャンル「人間」。

解像度が高い=優秀ではない

自称・解像度が高い人間による、解像度が低い人間disが目立つ様になった気がする。
正直、解像度バカ高人間からすると、解像度の高さはある種の欠陥であり、見えなくていいものが見える事により大変苦しい想いをして生きる事になる一種の枷でしかないので、それを理由に「他者より自分が優れている!見えている私凄い!見えてないアンタ達ダメ!」となっている人種は、いうてそこまで解像度が高くないと思う(だから悪いという話でもない)。

インターネットで”HSP”や”繊細さん”という言葉が浸透するようになって、生きやすくなった人が増えた半面、本当に化け物級の”レジェンドオブ繊細”みたいなカテゴライズの生き物が、「わかる~!」の輪に入れなくてより生きづらくなっている、みたいないつもいつでも起こるそれが起きてしまっているかな~という印象が、この数年である。

結局のところ、解像度がイカれてしまってる人間が何よりも一番よく見えるのは自分であり、自分の事が見えすぎる余りに他人の事なんて正直気にしている余裕がない。
自分の嫌な所、ダメな所、治したい所、他者と比較して優れていない所、みたいなものがわーわーわーわー襲い掛かってきて、それらと対峙するので精一杯なのだ。
そして、そういう事があるからこそ《自分じゃない他者には、自分にはわからない苦労があるだろう》と無いものを想像する力があるので、多分、そんなに他者の事を貶さないと思う。
ましてや、解像度が高い事をマウントの理由になんかはしない。

解像度の高い・低いはあくまでも属性であって、高ければ高得点というものではない。
視力の善し悪しの話ではないのである。
高ければ高いで便利な事はそりゃ沢山あるが、その分人の何倍も苦労を背負う事にもなる。
そういう自分の特性を把握してどう生きていくか?という話でしかないので、他者比較の道具にするもんではない。

そもそも”解像度”とはなんなのか

最近よく自分で”解像度”という単語を用いて話しているが、それはそもそも適切な表現なのか?という事を昨日からずっと話していた。

そもそも解像度というのは、とあるデータが存在していて、それを出力しているドットの数の話なので、《印刷データとしては存在していないけれど思想としてはあるもの》が見えているのは、もうそれ解像度じゃなくね???という。
《人の感情が視覚化されて見える》《口に出して話していない事を理解出来る》というのは、最早物の怪や妖怪の類であり、時代が時代なら巫女として祀られたり、魔女として火あぶりになっていたレベルなのでは???

例えば、会議室に自分とあと5人の人間がいたとする。
初対面だとしたら、それぞれの印象とお互いが誰を”好き”のフォルダに入れて、誰を”嫌い”のフォルダに入れているか?みたいな事が解るし、元からの知人なら、その5人のヒエラルキーカースト、好き嫌いの感情などの人間関係が少し話していたら大体わかる。「ああAさんはBさんの事嫌いなんだな」とかそういう奴。
1000人いても普通に見えるので、満員電車や渋谷のスクランブル交差点は感情の地獄である。
それって”解像度”なのか??????
(余談だが、そりゃ学校とか会社が苦手だよなと思う。全部解って、全部に気を使ってたら疲れんだわ。)

目に見えるものが見える・見えないだとすると、確かに見えていた方がいいような気もするから、解像度が高い=優秀という図式になるのは理解出来なくもないのだが、《目に見えないものが見えている》なので、いわばスピリチュアルやオカルトの領域に入ってきているし、けれどわたしにとっては”見えている”なので、言語化難しすぎる~~~~!!!という壁にぶつかった。

もっとそもそも論をすると、こういうのは見えて当たり前だと思って生きていたので《世の中って見えてないのか!?》という事に気が付けたのは確実にインターネットのお陰なので本当にありがたい。
そして、自分が稀な側の生き物である自覚はあるが、それが特別物凄い事だと思っておらず、むしろ「なんかのバグやろ」位に感じてるので、一生生きづらい音頭を踊ってしまうのだった。

わかってもらえない事はもうどうやったってわかってもらえない

ちょっと話が脱線して。
わたしはよく《わかってもらえない》という事で落ちこむのだが、世間一般からするとその部分ってのは他意がなく、悪意もなく、そもそもとして想定もしないような部分の話なので、わたしが何に悲しんで怒っているのかから伝える必要が出てきてしまう。
なのでこちらが感情的になればなるほど話はこじれていってしまうし(相手は想定もしないような事でこちらがいきなり怒ったり悲しんだりしているからそれはそうだ)、ロジカルに長文で語れば語るほどややこしい意味不明な人間になって蹴縁されてしまう。

もう、これが既に孤独で辛いのだ。
けれどわかってほしいからなんとか一生懸命伝えようと努力をしている、みたいな事を、別にあてつけがましくしたい訳ではないのだけれど、記しておかないと心がいつかぶっ壊れると思うので「色んな事を考えて生きてるんですよ」というのは定期的に発していきたいな~と思った。

結局、相手にわかってもらえない事で悲しんでる以上、こちらが何を言ってもわかっては貰えないので、《伝える》を選んでも理解されない事実を目の当たりにして傷付くし、《伝えない》を選んでも自分の中にモヤが残って傷付くし、という人生のコスパがわるわるな感じでお送りしている。
それでもやっぱり《いつかわかってもらえるんじゃないか》と思ってダイレクトアタックしてしまうし、ほんの少しでもわかってもらえた時はもう、それだけで号泣する位嬉しいんですけどね!!!!

でも、最近はもう《わかってもらえなかった》という現実の辛さに心が耐えられなくなってきているので、まったく新規開拓をしなくなってしまった。
諦める癖がついてしまった部分もあるし、自分にとって《わかってくれる人がいる》という安心感がある部分もあるし。
勿論後者の方が大きくて、それはとても素晴らしい事なのだけれど、ただそういう人達にだけ甘えて生きていくと、自分の事をわからない・わかりづらい人間をついつい悪としてしまう事があるので、それだけは絶対にチューニングが狂わないように生きていきたいな………という自戒も定期的にしていかないとならないのだった。

秘すれば花”の花畑で死にたい

ま~~~た死にたいシリーズが出てきてしまった。
わたし、理想の死に方が結構色々あるな?????
これも自分の哲学と美学の話。

前述のような《見えているもの》が、大多数の人間からすると《見えないもの》である自覚があるからこそ、その見えたものをデカい声で語るのは無粋だし、美しくないし、解っている人間同士で解かりあえていればいいのに、その事実をさも特別な物として自己顕示欲の為に消費してしまう事がきつい!!!!みたいな感覚。
けれどこれはわたしの考え方なので、そもそもとして《見えている》事自体をべらべらと公言するのはダサい!みたいな価値観の人もいるだろうし、それは本当に人それぞれだよなあと。

結局のところ、”秘すれば花”が好きで憧れて恋焦がれてしまうのだろうなあと。
そしてその花は、口にしてしまった瞬間枯れてしまうので、皆に自慢をしたいけれど、教えたいけれど、話したところでその花を愛でられる人間は一定数しかいないのだ、という事実をまず受け入れないとならん!みたいな事というか。

だから直接的にではなくて、物語や音楽や造形や、そういう物で表現をして、解る人間同士でキャッチボールをするんだと思うんですよ。
その為のツールとして演劇が大好きで、けれど最近は演劇だけではなくて色んな形でのそういったコミュニケーションにも興味が出てきて……というので昨日の話にまで戻るのであった。
ってなってくるとやっぱり演劇は手段だから、わたしの中では目的ではなかったのかもしれんなあ、というので傷付いてます!!という今日の話。

世の中で言う《メリーバッドエンド》って、秘すれば花の花を守り切った結果、対外的に見たらまったく理解が及ばない状況だけれど、当人達同士はその花を守る事が何よりも最優先タスクであり、その価値観が共有出来ているので幸せに満たされている……という事かなと思う。
秘すれば花”が美しいから皆にも見せたい!というのはこちらの価値観ベースによるエゴでしかないので、そこはこの数年で大分改まって来た気がするし、押し付ける事はなくなってきた(ように感じる)(それもまだ大分してしまうけれど)。
でも、それでもわたしはこの花の美しさを語って生きてきたいので、その花が見えて、感じ取れて、素敵だと思う人と生きていく事を選ぶんでしょうなあ………。

なのでどうしても人生メリーバッドエンドと呼ばれるものを好いてしまいがちだな!!!!!!!!
でも、メリーバッドエンドというのも観測者視点のカテゴライズにすぎないので、わたしからしたらトゥルーエンドでありハッピーエンドなんですけどね!!!

だから、わたしは今日もわたしのハッピーエンドを目指すのだった。
いつか秘すれば花の花畑でわたしがぽつんと死んでいたとして、それをハッピーエンドと形容してくれる人間が1人でもいますように、と信じて生きるしかない。
他人の選んだエンディングを、勝手に品評して可哀相がるな!!!!という昨年からずっと話している所にも通ずる奴。

で、結局それって

《誰にも解らない事を解かりあえている》という事に酔ってるのか、本当に嬉しいのかがよくわからない、という話に昨夜なってしまって、どうしても~~~~~~こうやってどんどんどんどん穴を掘っていってしまうのかわからなかったし、白黒はっきりさせようとしてしまうのかが謎だった。

けれど、まあ、それがわたしという人間なので。
こうやってどんどん突き詰めていってあーでもないこーでもないってやってる内に人生終わるんだろうな。
めちゃくちゃ贅沢な時間の使い方な気もする。



-------------

Twitter @ka_ri_ng
はてなブログ https://ka-ri-ng.hateblo.jp/
壷屋さん https://karing.base.ec
マシュマロ https://marshmallow-qa.com/ka_ri_ng
※返信はTwitterにて