今日の思想

日々の思想備忘録

2021年3月11日(木)の思想

目次


得意ではない

わたしが日頃多用し、今日の日記にも出てくる「得意ではない」という表現は、あくまでも《わたしは上手くそうすることや考えることが出来ない》という意味であり、《そうしたり考える人が苦手だ》という意味ではない。
あくまでもわたしの得手不得手の話であり、社会的正解を定義する気は一ミリもないのに、インターネットでこういう発言をすると大概別の価値観の人がキレてかかってくるので怖い。
ので注釈を書いた。
わたしの話です。

誰かの"死"に思いを馳せること

基本的に、1人亡くなろうが1000人亡くなろうが自分の感情が一緒だ。
というのは決して1000人の方を軽んじている訳ではなく、「1000人亡くなった」のではなく「1人亡くなった」が1000あると考えているからで。

だから「沢山の人が亡くなった◯◯」みたいな概念に、あまり上手く思いを馳せることが出来ない。
可能であればその人の人となりを理解して、理解した上で悲しんで、思いを馳せて、祷りたい。
漠然とした自称に対して祷りや悔いの感情を持つ事が苦手で、自分が悲しんだり怖がったりするために、数字として誰かの死を消費するのが怖いと感じてしまう。

1人亡くなった事象も、1000人亡くなった事象も、どちらも同じだけの感情を尽くして向き合っていたい。
1000人の顔をきちんと思い浮かべて、ひとりひとりへの思いを持ちたい。
そうでないと、この世にたったひとりしかいない《その人》が事象にかき消されてしまいそうで、儀式として消費されてしまいそうで、怖いのだ。
なので、どうしても《起きたことがら》に対して祷りを捧げる事が、今年もうまく出来なかった。

10年前、わたしは幸いにして身近な人間を誰も喪う事はなかった。
勿論しばらくのあいだ安否がわからず、毎日泣きながら心配をした友人だっているし、自分自身も大変な苦労を強いられた。
そして、そういった大きな事ではないニュースにもならないごくごく狭い、自分の周りでしか起きなかった事象として大切な人間を喪った経験もある。

人の死はどこまでも平等で、ひとりひとりに誠意をもって祷りを捧げたいと思ってしまう以上、悲しみの大きさを定義したり、何かひとつの事案だけを過剰に悲しいと感じる事が上手く出来ないのかもしれない。
悲しみに大きさなんてなくて、優劣なんてなくて、ただそこにあるだけ。
その悲しさをもっと具体的にして、きちんと想像して、そして"誰か"の顔を思い浮かべて、しっかりと祈っていたい。

以前、仙台に足を運んだ際に実際に津波の被害に遭った地域へと連れていってもらった事があった。
当時あった小学校がそのまま残されていて、あまりのリアリティーさと情報量に、その場で信じられない頭痛と目眩に襲われた。
けれど、その時に初めて具体性を持って《悲しい》と胸を痛めて涙を流し、その空間にいた人達の事を想って祷る事が出来た。

そういう風に、自分なりに誰かの顔を思い浮かべないときっと上手く思いを馳せることが出来なくて、それを《タイミングだから》という理由で自分の感情を引っ張り出してくることも出来ないのだろう。
自分がその悲しみにきちんと触れた時に、その場所にいた人の事をきちんと思い浮かべられた時に、それがいつかなんて関係なく、きちんと心を込めて祷ることが出来たらそれで十分なのだと思う。

日付をフックにして思い出すことは勿論大切で、風化すべきでも誰かが忘れるようなこともあってはならない。
ただ、わたしはわたしの中でそれが行事化して、タスクになってしまうことが得意ではないのだろうなあ。

誰かの"生"に思いを馳せること

《生まれてきてくれてありがとう》という気持ちを年がら年中持ち合わせて生きているので、記念日だから何か伝えよう!みたいなことにもならない。
何故なら思ったことは思った時に伝えていて、その中に生と出会いの感謝は常に含まれていて、生まれてきたことはめでたいことだと毎日考えているから。
贈り物も、基本的に「これいいな」と思ったり、相手の顔が浮かんだら年がら年中タイミングを気にせず渡すので、それが特別な行為だとも考えていない。

だからどうにも《誕生日だから何かしよう》というのが得意じゃない。
それこそ1月の自分の誕生日の時のような《それにかこつけて騒ごう》みたいな理由として消費することを、自分に対しては出来ても、他者に対して上手く行うことが出来ない。

結局それって相手の記念日を理由付けて自分のアピールに消費しているのでは? みたいな気持ちが沸いてしまうことが多くて、《誕生日だから何かしよう・何か伝えよう》じゃなくて、したい時にしたいことをして、思った時に思ったことをするようにしたいというか。
自分の中に誠意があるかどうかみたいなことを物凄く重視してしまうし、相手のためにとかこつけて自分のためになる行為をしてしまうことが、どうしても自分で許せないのだと思う。
そもそも、基本的には日付を記号としか捉えていないのかもしれないな。

ただ、日付をフックにして誰かに声をかけたり会おうとする事は世間一般のコミュニケーションとして当たり前のことだし、そういう世間に属している以上、相手が喜ぶ選択肢を選ぶ。
日付をフックにプレゼントを受け取ったり、想いの丈を伝えられたり、皆で集まりたい友人がいたら勿論その希望は叶えたいのでその通りのスケジュールを立てて、自分の誠意が尽くす限りのことをする。
誕生日だから自分に会いたいと言ってくれる人がいたら、それは勿論喜んで足を運ぶ。

けれど、世の中のすべての人間がそうだとは限ってもいないだろうし、こちらの《これをしたら喜ぶだろう》を押し付けることをしたくないし、前述の通りに自分の欲求を満たすためだったり、自分のアピールのために利用してしまうことが怖くてたまらない。
「生まれてきてくれてありがとう」なんてことは、自分にとって大切な人全員に対して毎日思っていて、必要があればいつだって口に出している言葉だから、キッカケがないと伝えられない特別なものにしたくないというか。

すべてに対してウェットな癖に、日付に対してそれなりにドライなのなんでなんだろうなあ。
わたしの脳みそが今一つ《この日付だからこういうことを考えましょう!》というのを理解出来ないのだと思う。
いつだって考えたい時に考えたいことを考えているので。

ちなみに、これらはあくまでも≪自分が誰かに対して≫思うことであり、誰かが自分に対して行ってくれることへそういう風に思ったことはない。
その人が、喜ぶだろうとこちらのことを1秒でも考えてくれた行動は、基本的にはなんだって嬉しいので。

そんなこんなで

2021年の3月11日な訳である。

起きて、美味しいものを食べて、人と話して笑って、ムッとしたことをきちんと口にして、楽しく仕事をして、大切な人に思いを馳せて、明日の予定を確認して、そして寝る。
いつもと変わらず自分として生きていた1日は、いつだって特別だから。

わたしは今日も、わたしとして生きていた。
それだけで十分である。
生も死も関係なく、森羅万象すべてに祝福を。
わたしと出会いがあったすべてに感謝を。


わたしが生まれてきたことを祝福してくれる人も、
わたしが死んだことを悲しんでくれる人も、
日付に囚われず、思いたい時に思ってくれたらいいなあ。



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